2007年12月5日水曜日

計算不可能性を許容するメタバース

木下です。

前回の投稿で、WWWとメタバースの違いの1つとして、情報配置構造の違いを指摘しましたが、『計算不可能性を設計する』(神成,宮台,2007)の中で神成先生が興味深い発言をされていたので、報告致します。

【計算不可能性を許容するメタバース】
現在のノイマン型コンピュータによるコンピュテーション化は、現実世界を計算可能なものに埋め尽くしてしまった。その結果、便利だけれども、何の発見も感動もない“薄味の日常生活”に、人々はウンザリし始めている。(これが行き過ぎると、コンピュータによるシームレスな管理社会が見えてくる。)今後求められるアーキテクチャは、ノイズやアクシデントを許容し感動を生み出すような、不確実性/計算不可能性の高いアーキテクチャであり、その1つのソリューションとして、メタバースを位置づけられるのではないか、ということです。つまり、人間は完全に合理的な存在ではないにも関わらず、これまでは効率性ばかり過度に重視してきたので、今度は感情/感動などの非合理なものを求めていると捉えることができるのではないでしょうか。

このことは、例えば「本を買う」ということを考えてみれば分かりやすいと思います。インターネット以前は、目的もなく本屋に行くのが楽しみだった。インターネットが普及した現在は、アマゾンで買うことの方が多くなった。そこでは、目的を持って、キーワード検索をする。リコメンデーションシステムも、コンピュータの計算によって提示された選択肢にすぎない。けれども、メタバース内で本屋を実装すれば、明確な目的を持たずに本屋をウォークアラウンドし、平積みされた本にふと興味を持つといった、従来の探索の楽しみが復活する。つまり、探索プロセスを許容するだけの冗長性を創出することができ、計算不可能性を増大させることができる、ということです。(eコマースとアパレルの相性が悪い理由の1つもこれに関連しているかもしれません。少なくとも女性にとって、ショッピングとは、目的合理的なものではなく、非合理的な探索プロセスを楽しむものだからです。ちなみに、セカンドライフでは、アパレル業が最も繁栄しています。)

このように考えると、テクノロジー進化のベクトルが、「目的合理性/効率性/計算可能性の追求」から、「非合理性(感情や感動)/不確実性/計算不可能性の追求」へと、「原点回帰」していると捉えることができるかと思います。また、メタバースは、単に現実を模倣しているだけではなく、検索とテレポートなど、現実より効率的なので、弁証法的理解も成り立つかと思います。例えば、現実空間の本屋では、隣の人に話しかけづらいですが、メタバースの本屋では話しかけやすいという点でも、現実以上のものが志向されていると言えるかもしれません。



【メタバースの類型と進化】
グループで議論をしていて、メタバースの定義が広すぎて混乱が生じていたので、「進化」という文脈でタイプ分けしてみました(図2参照)。初期のMMORPGでは、敵を倒し、レベルアップし、ダンジョンをクリアするといった明確な目的やストーリーが与えられていたが、自由度が高まるにつれ、目的が曖昧になり、コミュニケーションやアバター/家を創るといった「生活」の要素が強化された。(この変化を、宮台氏は、昔のゲームは与えられた選択肢の連続だったが、今では、現実の方が選択肢の連続であり、仮想と現実の“計算可能性”が逆転してしまった、と述べている。)この、自由度が高まり、目的性やストーリーが曖昧になった仮想空間を、「メタバース1.0」と呼ぶことにします。それに対して、セカンドライフは、通貨の兌換性があり、企業や教育機関、政治利用が進んだ点で、より現実に近づいたため、「メタバース1.5」と呼びます。ここまでは、過去の話です。

今後は、セカンドライフ的なものが、更に現実に近づいていくと思われます。他方、上述のように、従来のWWWが、よりエモーショナルなメディア、より不確実性/計算不可能性の高いメディアを志向するとしたら、この2つの流れが合流するのではないでしょうか。その合流地点(次世代のインターネット像)を、「メタバース2.0」と呼びます。おそらく狭義のメタバースは、2.0を指していると思われます(「メタバースはまだ実現していないが、最も近いものとしてセカンドライフがある」といった言説もあるので)。

長くなりましたが、メタバースを、きちんと定義づけ、テクノロジー進化の文脈の上に位置づけなければ、RQが立てられないと思いますので、金先生や生貝さんにも是非コメントをいただけましたら、大変助かります。

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